Christchurch
16年と少し前。
1994年12月24日、25日 僕はクライストチャーチにいました。
当時大学4年生。オーストラリアとニュージーランドをバックパッカー旅行してました。
クリスマスの夜はクライストチャーチの大聖堂の前で、
2000人が集まった讃美歌の大合唱に参加しました。
25日には、日本の元旦のように静まり返ったクライストチャーチを歩いて回りました。
レンガ造りの建物が多く、日本と違って、調和のとれた美しい街並みでした。
その約3週間後、僕はオーストラリアの荒野を走る長距離バスの中で、
阪神淡路大震災の発生を知ることになります。
当時は電子メールなどなく、携帯電話も普及していない時代でした。
街角の公衆電話には日本人が列をなしていました。
日本にいる家族や友人、同僚の安否を気遣う人たちでした。
並んで日本に掛けた電話でしたが、なかなか繋がらなかったのを覚えています。
街中歩いて、すいている公衆電話を探しました。
並んでいない公衆電話から、家族や友達の家に電話を掛けまくりました。
大学は西宮・上ヶ原にあり、たくさんの友人がその近辺に下宿していました。
掛けた人全員の安否がわかるまで一週間近くかかったと記憶しています。
シドニーでどうすることもできず、
一日遅れのNHKや街角のニュースペーパーで情報をあさることしかできなかった記憶があります。
情報がないこと、繋がりがないことが、ものすごく不安であるということを実感しました。
オーストラリアでは、人々は普段と変わりない日常を過ごしていました。
そんな中、オーストラリアでも、KOBEのための募金活動が始まりだしたときは、
本当に感謝の気持ちでいっぱいでした。
いま、日本にいるニュージーランド人は不安な気持ちでいっぱいだと思いますが、
同じ地震大国の日本人がその不安を和らげることだできればと思います。